藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 4巻
SF・異色短編のレビューも最後の4巻になりました。しかし、少年SF短編も3冊残っていますので、これで終了って感じはしませんね。4巻に収録されているのは
- ドジ田ドジ郎の幸運
- ヒョンヒョロ
- 自分会議
- 換身
- 箱舟はいっぱい
- ウルトラ・スーパー・デラックスマン
- T・Mは絶対に
- 幸運児
- 大予言
- 老雄大いに語る
- 光陰
- オヤジ・ロック
- 一千年後の再会
- ある日……
- 俺と俺と俺
- カンビュセスの籤
- 宇宙人レポート サンプルAとB
- 並平家の一日
- 昨日のおれは今日の敵
- 殺され屋
それでは気になった作品というか、これは語らねばならんだろうという作品の感想です。
ヒョンヒョロ
大全集ではじめて読みました。
宇宙から来た大うさぎがマーちゃんに「ヒョンヒョロをくれないと誘拐する」といった脅迫状を渡します。
この作品の大うさぎは一見、Q太郎やドラえもんのように「違う場所から来た友達」のように見えます。
物語序盤、親が大うさぎなんているはずがない、見えていないといったやりとりのシーンは藤子先生得意のコメディといった感じがします。大人向けの話なので有性生殖がどうのこうのといったやりとりもありますが。
警察は、大うさぎを逮捕しようとするのですが、大うさぎの圧倒的な実力に太刀打ちできません。大うさぎの表情や言動に狂気が見え隠れします。
ヒョンヒョロとはなんなのか大人たちにはわからず、手に入らないことがわかると、大うさぎは地球からマーちゃん以外の人間を誘拐するというオチです。
マーちゃん以外の人間を誘拐する展開は、脅迫状をマーちゃんに渡していることから、はやいうちに予想はできました。しかし、大うさぎの豹変から見開きで表現される誘拐後の世界は圧巻でした。
ハーメルンの笛吹き男を思い出しました。笛吹き男は街から子供を誘拐しましたが、大うさぎは地球からマーちゃん以外を誘拐するというスケールの違いはありますが、どちらも最初はわりと友好的ですし。
このあとマーちゃんがどうなってしまうのか、そう考えると後味の悪さは藤子・F・不二雄先生の作品の中でも上位に入ります。
ウルトラスーパーデラックスマン
大全集SF・異色短編1巻収録の「カイケツ小池さん」の続編にあたります。
正義感は強いけれど小心者だった小池さんが、圧倒的なパワーを手に入れウルトラスーパーデラックスマンとなり、独善的な正義をふりかざし暴走します。
小池さんには自衛隊の攻撃どころか核さえも無力です。この圧倒的な実力はヒョンヒョロの大うさぎに通ずるものがあります。
国は小池さんを放置し、彼の家のまわりは治外法権となります。このあたりのディティールの描写が丁寧ですね。国に軍隊以上の戦力を持った一個人がいる。そのシュチュエーションがすでにおもしろいです。
小池さんはテレビに映ったアイドルに興味をもち、テレビ局に電話をかけ、呼び出し、自分のものにしようとします。誰も小池さんには逆らえず、アイドルも覚悟を決めています。子供の頃このシーンを読んだとき、小池さんのゲスな行為に反吐が出そうになりましたが、大人になってから読んでもやっぱり胸くそが悪くなりますね。
最終的に小池さんはウルトラスーパーデラックスがん細胞におかされ、病死するというラストで物語は幕を引きます。
この唐突で皮肉なオチはウェルズの「宇宙戦争」から着想を得ているのではないでしょうか。
カンビュセスの籤
古代ペルシアの兵士・サルクはある籤(くじ)に当たります。この籤は行軍中に食糧不足におちいったペルシア軍が、10人単位で籤を引き、当たった仲間を食べるというものです。サルクは逃亡し、その途中、見知らぬ土地に迷い込みます。
サルクが迷い込んだ先は核戦争後の未来で、エステルという女の子に助けられます。このミステリアスな雰囲気をまとった少女は、この世界でたった一人で、地球外生命体にSOSの信号を発信しながら、助けを待っています。籤に当たった同胞を食料とし、コールドスリープを繰り返しながら。
遠い未来の世界でも、古代人と同じ道程を歩んでしまう人類の愚かさ、タイムスリップをしても籤を引く運命が待っている皮肉、とても悲しい物語だと思いました。
サルクは未来世界でも籤を引きますが、結果を見ることなく逃亡します。
あたしたちには生きのびる義務があるのよ。
人間からビールスにいたるまで、植物も含めて
すべての命あるものの行動の目的は、一点に集約されるのよ
生命を永久に存続させようという盲目的な衝動……
ただそれだけ
この世にありたいということ、あり続けたいということ、ただそれだけ
そして今やあたしたちは、有史以前から地球上に発生したあらゆる生命体の代表なのよ
一人でいいの、一人生き延びれば充分なの
クローン培養でコピーは無数につくれるわ
さらに、遺伝情報の制御で進化のあとを逆にたどり、地球の生命の全種属を再生させることも可能なの
だから、一日でも永く生きる責任が……
おねがい、最後のチャンスなのよ
おねがい……
サルクは自身の体を役に立てようと戻ります。しかし籤の結果はエステルが当たりを引いていました。サルクはエステルを食べてコールドスリープをする側になります。
エステルが自身を食料(ミートキューブ)にする方法を説明しながら物語は終わります。このシーンは「ミノタウロスの皿」同様、食べられる運命にある少女の一糸まとわぬ姿で、すさまじいエロスを感じるという点は共通しています。しかし、ミノタウロスの皿のミノアが喧騒の中消えていくのに対し、エステルは静かに運命を受け入れています。
このときのエステルの悟りきった表情が印象的です。長い月日と、いままで自身が食べてきた同胞の姿が彼女を割り切った考え方にさせたのだなと思うと、いっそう切なさが増します。
宇宙人レポート サンプルAとB
世界でもっとも有名な悲恋といっても過言ではないロミオとジュリエットですが、当人たちの燃えるような情熱とは対照的な、宇宙人の覚めた視点がギャップになって相当おもしろいと感じました。
原作は藤子・F・不二雄先生ですが作画は違う人がしています。巻末のインタビュー記事によると
あの有名な古典の”ロミオとジュリエット”ですね、あれを非常に化学的に即物的に散文的にというか離れたところから描いてみたらどうかという着想は前からあったんです。でもやっぱり絵柄の問題もありまして、どう考えてもボクの絵だとぴったりこないわけです。コロコロとマンガチックだし、何かそのもっとシリアスな感じが欲しかったし、内容が散文的で殺風景なものであればあるほど、絵の方はきれいなきれいな物にしたかったんです。
別の人の作画だったり、シェイクスピアの作品をベースにしたりと実験的で、異色中の異色作ですが、この作品をベースに少年SF短編3巻収録の「征地球論」を描いたのではないでしょうか
藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 3巻
SF・異色短編のレビューも3巻目に突入です。3巻に収録されているのは
- ぼくの悪行
- メフィスト惨歌
- 神さまごっこ
- あいつのタイムマシン
- いけにえ
- 超兵器ガ壱號
- テレパ椎
- 旅人還る
- 白亜荘二泊三日
- 福来たる
- 求む!求める人
- 倍速
- 侵略者
- マイホーム
- マイシェルター
- 裏町裏通り名画館
- 有名人販売株式会社
それでは気になったエピソードをピックアップ。ネタバレを含むので未読の方は注意してください。
メフィスト惨歌
この漫画はどんでん返しのアイデアが秀逸でした。主人公は悪魔に願いを叶えてもらう代わりに、死後に魂をわたすという契約をするのですが、知識が乏しい悪魔を出し抜く手腕が実に見事でした。
主人公の願いのひとつに、幼なじみの女の子もふくまれるのですが、悪魔にその願いを認めさせるために、人間の値段を語るくだりはSF・異色短編集2巻収録の「値ぶみカメラ」における「本価」ですね。しかし悪魔は彼女の「産価」を肩代わりするハメになります。
ラストシーンは「どちらが悪魔かわからない」といったところでしょうか。悪魔はどこか怪物くんのドラキュラに似ていて、愛嬌のあるキャラなので気の毒になりました。
超兵器ガ壱號
巨大な宇宙人ガリバは日本軍の軍人として戦争に参加し、彼は救国の英雄となります。大長編ドラえもんの「のび太の小宇宙戦争」は、この作品がベースになっているのではないでしょうか。
この巻に収録されている「倍速」などにも思うことなのですが、オチからさきに物語を作る帰納法で作劇されているように感じます。地球人にとっては途方もないことでも、宇宙人からすればそうでもないという皮肉の効いたオチは短編の「絶滅の島」でも描かれています。
落語や星新一作品のような読み味でした。
旅人還る
藤子・F・不二雄先生の作品群の中でもとくにスケールの大きい作品です。主人公はフダラク計画というプロジェクトに志願した宇宙飛行士です。
フダラク計画とは亜光速航行とコールドスリープを併用し、一人のパイロットが宇宙の果てを見るという計画です。この作品は全編をとおして、細かいディティールの描写が秀逸です。計画の是非を問う、政治家たちの描写が物語の期待を高めます。
「一人のパイロットが宇宙の果てを見たとしよう。その感激を彼はどうやって伝えるのですか。
百万光年の後方から発したメッセージは百万年かからなければ地球にとどかないのですよ。
いったい人類がこの先何万年存続するとお考えなのか
結局は、そのパイロット一人の個人的体験にとどまるのではありませんか」
「それでいいのです。頂上をきわめるアタッカーは一人で十分です。われわれは……
いや発生以来すべての人類が、この企てのためのベースキャンプを設営してきたのだと考えましょう」
「しかし……こういうとほうもない片道旅行にだれを送ります。これは人道問題ですぞ!!」
「志願者が多くて人選にこまっているくらいです。
井の中からとびだして大海をみたいと願う蛙たちがいっぱいいるのです」
そもそもフダラク計画のフダラク(補陀落)とは仏教用語で南方にある浄土のことで、そこを目指し、渡海する捨身の行のことを補陀落渡海というそうです。生きながらの水葬で、不帰の旅となります。
言い得て妙なネーミングです。計画名に仏教用語がさりげなく出てくるあたりに、藤子・F・不二雄先生の教養の深さと洗練されたセンスが伺えます。
主人公は恋人を地球にのこして、二度と帰らない宇宙の旅に出発します。
観測したデーターを地球に送ったり、体力が落ちないように船内でランニングしたりと、船内での生活が丁寧に描写されます。話し相手はメインコンピューターのチクバ。竹馬の友からとったネーミングなのでしょうか?
主人公は最初のコールドスリープで地球で別れた恋人の夢を見ます。「未練だな」とつぶやくときの無理に作った笑顔が、切なさを強調させます。
幾度かのコールドスリープを繰り返し、地球をたってから何万年かが過ぎます。スターボウを見ても銀河をぬけても、主人公の心は動かなくなります。孤独が彼の感情を乏しくしてしまったようです。
地球から二百億光年離れた状況をチクバが説明します。それでも動かない心を、同じコマを繰り返すことで表現されています。シンプルながらも非常に効果的な演出だと思いました。見ていて辛くなります。
しかし、チクバが最後に地球の映像を見せることを提案すると、主人公は身を乗り出します。針の頭ほどの光線をとらえて、最大限に増幅、補正した地球の映像を見て主人公は涙します。チクバから自分たちの出発から50億年後に地球は滅びたことを告げられます。
泣いた。
意外だった。ぼくに、まだ涙を流す機能が残っていたとは……
二百億年間、たまりにたまった涙を、
ぼくは止めどなく流しつづけた
そして膨張していた宇宙が収束に向かいます。死を覚悟した主人公は最後のコールドスリープに入り、そしてすべてが無に帰します。
その状態が見開きのベタで表現されるのですが、この演出には大きな衝撃を受けました。ここまでの物語のディティールが丁寧に描かれているからこそ、シンプルで大胆な演出のギャップが、読み手の心を揺さぶります。
主人公は最後のコールドスリープから目覚めます。目の前には再生された地球。主人公が地球を出発する日。
彼は恋人と再開し物語は幕を閉じます。
宇宙が無に帰してからの一連の展開は圧巻でした。この物語はSFですが、なにか壮大な神話や宗教観にふれているような感覚を覚えました。畳み掛けるように、でも丁寧に、ラストの一コマに向けて物語が進みます。
再生した地球で再開する場面、このときの恋人の服はすこし破れており、顔も汚れています。いろいろと解釈はあるでしょうが、これは主人公の見ている夢ではなく現実なのだという、作者の明確なメッセージなのだと自分は解釈しました。
主人公が最初のコールドスリープで見た恋人の夢は、再開したときと同じような場所で同じ服を着ています。この夢と差別化をはかるための演出なのではないでしょうか。
そもそも、夢か現実かわからないように描写するつもりなら、脈動宇宙説の説明をする必要はありません。
主人公が出発する日、ロケットまで見送りに行った恋人は、つらくなって出発を見届けずに、逃げるようにその場を去り、転んだのだと推測します。
つねると痛いのが現実ですから、少々怪我をしている姿を描写することで現実なのだと表現しているのだと思います。
そして、セリフなしの絵だけで表現されたラストシーン。
通常、SFの表現媒体として漫画は中途半端であると自分は考えます。SFの細かな設定や科学知識を披露するのなら、漫画より小説のほうが向いていますし、スケールの大きな宇宙船や未来都市を描くのならカラーで動きのある映画やアニメのほうが向いています。
しかしこの作品の場合、傑作たらしめている要因のひとつに、漫画であるということがあげられると思います。
乾いた心を表現する同じコマの繰り返しや、宇宙の終わりを表現する見開きの闇、再開や宇宙の神秘の驚きを表現するラストシーン。 漫画という表現手段の素晴らしさを再認識させられます。
藤子・F・不二雄先生の作品群で、最高クラスの傑作だと思います。
藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編2巻 感想
SF・異色短編2巻に収録されているのは
- どことなくなんとなく
- 3千3万平米
- 分岐点
- 女には売るものがある
- あのバカは荒野をめざす
- パラレル同窓会
- クレオパトラだぞ
- タイムカメラ
- ミニチュア製造カメラ
- 値ぶみカメラ
- 同録スチール
- タイムマシンを作ろう
- 夢カメラ
- コラージュ・カメラ
- 懐古の客
- 四海鏡
- 親子とりかえばや
- 丑の刻禍冥羅
- 鉄人をひろったよ
- 異人アンドロ氏
8~11、13~16、18は未来から来たヨドバ氏が不思議なカメラをセールスするシリーズです。もう少し話が多ければ、短編ではなく一つのシリーズとして単行本化もあったかもしれません。
それでは気になったストーリーをいくつかピックアップしたいと思います。
どことなくなんとなく
この世界には自分しかいなく、まわりにあるものは自分の脳が生み出した幻想だったら…そんなことを考えたことがある人なら、より楽しめる短編だと思います。オチまでいたる展開に少々強引さも感じましたが、心にずんと来るものがありました。
現代で言うところのセカイ系のお話ですね。
分岐点
ある程度年齢を重ねると、あのときこうしていたらいまもっと幸せだったんじゃないか、なんてことを考えたりします。あの学校を選んでいたら、あの仕事を選んでいたら…なんて。
このお話の主人公は2人の女性のどちらかを選ばなければならない選択を迫られた過去があります。人生のやり直しでそのとき選ばなかった女性を選ぶのですが、結局後悔する主人公の姿がラストで描かれます。
最近はゲームとかで、複数のヒロインがいて、どの女の子を選んでもハッピーエンドになりますよね。このお話はどちらを選んでも、完全な幸せは得られないんですよ。どちらを選んでも不満がある。そのあたりのさじ加減が絶妙だと思いました。
あのバカは荒野をめざす
ホームレスの主人公が過去にさかのぼり、身を落とすキッカケとなった女と、若い頃の自分を別れさせようとする漫画です。
まずタイトルがいいですね。
「あのバカは荒野をめざす」
読み終えたあと、その響きに胸が熱くなります。言語センスに脱帽です。
藤子・F・不二雄先生は現在の自身の境遇を変えるため、過去を改変しようとする人物の物語をいくつか生み出しています。この本にも収録されている「分岐点」や「未来の思い出」「あいつのタイムマシン」などは過去の改変に成功し、別の現在を手に入れますが、本作は過去の改変に失敗します。
過去の自分を説得しようとするのですが、現在の落ちぶれた自分を見せても、若い頃の自分は揺るがないんですね。そして主人公は若き日の自身の姿に感化され、前を見て歩むことを決めます。
結局……
道をあやまるのも若者の特権ということかね。
だれにも止めることはできない
それにしてもあいつ……燃えてたなあ
あれがかつてのおれの姿だったんだ……
あてはないがね、
何かをやってみたくなった
ひと花咲かせられぬわけでもあるまいよ
なあに、おれだってまだまだ……
若さの讃歌がこの作品のテーマだと思います。藤子・F・先生は同様のテーマを「未来ドロボウ」という作品でも描いています。この作品とともに先生の人生哲学が垣間見れる傑作と言えるでしょう。
値ぶみカメラ
藤子・F・不二雄先生の漫画の中でもかなり好きな漫画です。先生は多作ですが、ここまでストレートなラブストーリーはあまりないのではないでしょうか。
値ぶみカメラはものの価値が写し出されるカメラです。
被写体の原材価格である「本価」と市場価格である「市価」、被写体がこれから生み出す「産価」、そして写した人間にとっての価値をはかる「自価」がわかります。
この4つの価値がわかるというアイデアが秀逸ですね。
人間を写して本価965円という描写がありますが、これは人間を脂肪や炭素の集合体として見た価格で、大全集3巻収録の「メフィスト惨歌」でも似たようなことが語られますね。
主人公の竹子は自身に好意を抱く二人の男性、青年実業家でイケメンの倉金と貧乏カメラマンの宇達を値ぶみカメラで撮りくらべます。
倉金が生涯で生み出すお金「産価」は宇達とくらべようもないぐらい高いものなのですが、竹子は宇達を選びます。竹子にとって宇達の「自価」はケタが表示されないぐらい高いものだったというオチです。
竹子は藤子F先生の描く女性キャラクターの中では、個性的なほうだと思います。メガネで男物のようなコートを着て、母親からも「男か女かわかんないかっこして」と言われています。しかし、ドラえもんのしずちゃんのようにダメな男を選ぶあたり、正統派の藤子ヒロインですね。自分が選ばれたことに驚きを隠せない宇達の表情も微笑ましいです。情熱的でロマンチックでとてもやさしい物語だと思いました。
倉金&宇達「信じられない!!」
あたしも……
でも、これしかないんだわ
玉のこしをすてて
真実の恋に生きる……
絵にかいたみたいな
結末ね
丑の刻禍冥羅
堂力は実に胸クソ悪いヤツですね。主人公が「丑の刻禍冥羅」という呪いのアイテムを使う以上、対象は悪者でないといけないのですが、じつにイヤなヤツでした。
顔もなんかムカつきますしね。主人公の元恋人で堂力の妻になっている女性は何が良くて堂力を選んだのでしょうか?
まぁ、当然の結果というか堂力は自業自得といった形で無残な最期を遂げます。
藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編集 1巻
藤子・F・不二雄先生の短編集は子供の頃、単行本や文庫本で揃えていたのですが、全話コンプリートしたいと思ったのが大全集を揃えるきっかけでした。
S・F異色短編集の第1巻に収録されているのは
- ミノタウロスの皿
- カイケツ小池さん
- ボノム 底ぬけさん
- じじぬき
- わが子・スーパーマン
- 気楽に殺ろうよ
- アチタが見える
- 劇画・オバQ
- イヤなイヤなイヤな奴
- 休日のガンマン
- 定年退食
- 権敷無妾付き
- ミラクルマン
- ノスタル爺
- コロリころげた木の根っこ
- 間引き
- やすらぎの館
気になったストーリーをいくつかピックアップしたいと思います。
ミノタウロスの皿
非常に有名な作品ですね。
藤子・F・不二雄先生が大人向けの短編を描くキッカケとなった記念すべき作品です。小学館の編集者に進められて描いたらしいのですが、その編集者がいなければと思うとゾッとしますね。のちの傑作群が生まれなかったわけですから。
内容はといいますと、宇宙飛行士の主人公が宇宙船の故障である惑星に不時着します。この主人公は21エモンそっくりで、大人になって宇宙飛行士になった21エモンという説があります。
この主人公が不時着したイノックス星は、牛が人間を家畜として管理する星で、牛のことをズン類、人のことをウスと読んでいます。主人公は肉用種のミノアという少女に恋をします。
以下、感想ですがネタバレを含むので未読の方は注意してください。
この話は牛と人間の関係を逆転したものですが、それだけにとどまりません。
この星の牛と人間の関係が、我々が住む地球のそれと決定的に違うのは、食べる側と食べられる側の間に意思の疎通がはかれることです。
食べられる側のミノアはそれを納得しています。
ただ死ぬだけなんて…何のために生まれてきたのかわからないじゃないの
あたしたちの死は、そんなむだなもんじゃないわ
大勢の人の舌を楽しませるのよ
(後略)
食べられる側もそれが当たり前のこととして受け入れているんですね。もし、地球の牛が喋れてもこんなことは言わないと思います。このミノアの考え方はイノックス星の常識であると同時に、我々の家畜に対する都合のよい考え方でもあると思います。
主人公は他の星の支配者層ということで、ミノックス星の牛と同待遇を受けています。ミノアを救いたい主人公は、支配層である牛に、人間を食べるなんて残虐なことはやめろと説いて回るのですが、まるで受け入れてもらえません。この状況を本編で「ことばは通じるのに話が通じない」と表現しています。
日常生活でもたまにありますよね。こいつと話してても時間の無駄だ、みたいなとき。そんな状況のモヤモヤ感を見事に言語化してくれたような気がします。
ハナシがそれました。
けっきょく常識VS常識なのですから、ホームの常識にアウェイの常識は通じません。
そしてミノアは大祭のメインディッシュとなるため大皿にのせられ、パレードがはじまります。このときのミノアの一糸まとわぬ姿にすさまじいエロスを感じます。
すべてが徒労に終わり、主人公は失意の中、迎えに来た宇宙船の中でビフテキを食べて物語は終わります。
子供の頃読んだとき、無力な主人公が少しでも溜飲を下げるために、復讐のつもりで牛を食べたと思ったのですが、大人になってから読むと
「自分だって牛を食べてるんだから、説得なんてできないんだよ」
というメッセージなんだと思いました。
この物語のIFとして、主人公が牛に残虐だからやめろと説くのではなく、同種族のミノアのことが好きだから、彼女だけを助けてくれと懇願したら、あるいはミノアの命は助かったかもしれないなと考えたりします。
もっともミノアが、それを喜んで受け入れるとは思えませんが…
ボノム 底ぬけさん
ボノム(Bonhomme)はフランス語で人とか人形のことを指すらしいのですが、お人好しという意味もあるそうです。
この作品は大全集ではじめて読みました。
仁吉さんはとてもお人好しで、会社の新入りはそれをもどかしく感じています。新人りは仁吉さんに一言もの申さんと屋台にさそいます。
最初は仁吉さんと新人りのやりとりでハナシが進んで行きますが、屋台の主人、街娼、チンピラ(街娼の情夫)と、一人ずつドタバタをまじえながらストーリーに加わっていきます。
屋台を舞台にして、役者が一人ずつ登場し加わっていく演劇、あるいはコントを見ているような感覚で読み進めました。
登場人物がそろい、仁吉さんがなぜお人好しなのか、本人の口から人生哲学が語られ、物語の雰囲気が喜劇からSFに変わります。人間の行動とは環境と遺伝子で決まる。人間はこれらに操られている人形にすぎない。だから誰も責めない、すべてを許すというのが仁吉さんの哲学です。
つまりタイトルのボノムは仁吉さんの性格「お人好し」だけでなく、人間は環境と遺伝子にあやつられる「人形」のダブルミーニングなんですね。
そして最後は皮肉めいたオチで終了。まるで落語のようでした。
この作品は藤子・F・不二雄先生の漫画の中でも、かなり特殊な読み味だと感じました。前述しましたが、演劇や落語のような感覚を受けました。藤子・F・不二雄先生の落語好きは有名で、オチのうまい作品は多々ありますが、演劇的だと思った作品は、あまり思いつきません
いまさら言うまでもありませんが、先生の引き出しの多さに、畏敬の念を抱かずにはいられません。
オバケのQ太郎1巻
藤子・F・不二雄大集をそろえています。
新品1冊あたり1000円以上するので、そうそう頻繁に買うわけにもいかず毎月1冊づつ購入しているのですが、ときおり安く買えたりするので頻繁に通販サイトを覗いたりしています。
今回紹介する「オバケのQ太郎」は、日常の中に異分子が住み着いて、さまざまな騒動が起きるという藤子先生の王道パターンを確立し、社会的に大ブームを巻き起こした大ヒット漫画です。
子供のころオバケのQ太郎のアニメが放送してたので、その流れでコミックのほうも読んでいたのですが、何十年も前の記憶ですし、はじめて読むような感覚でページを開きました。
「思ったより古いなぁ」
というのが最初の印象。1964年の作品ですし、当たり前ではあるのですが。
あとがきによるとトキワ荘のメンバーが、スタジオゼロを立ち上げたころに連載の話がきたらしく、原稿料をスタジオの運鋭資金にまわすため、作画をメンバーで分担していたのだとか。
藤子・F・不二雄先生後期の完成された画風、品がある洗練された絵のイメージが強い人から見ると違和感を感じるかもしれませんね。
脇役は石ノ森章太郎先生が描いていたらしく、絵柄がまんま本人です。藤子先生の画風にまったく合わせようとしないのはご愛嬌です。
読んで印象に残ったエピソードは「オバ子がいたよ」
正ちゃんの林間学校に、Q太郎がついて行きたがるのですが、当然断られます。どうしてもついて行きたいQ太郎は、女装してオバ子としてまぎれこみます。
しかしある男の子が「ひとり多くまぎれこんでる」と気づいて、オバ子のことを先生にいいつけようとします。しかし、そのつどオバ子がとんだり消えたりして、先生の視界に入りません。男の子は先生に、からかっているのかと叱られるといった内容です。
これとよく似たエピソードで21エモンに「火星に遠足」という話があり、セルフリファインとして興味深かったです。
また「ネズミを追い出せ!」なんかは、のちのSF短編「うちの石炭紀」を彷彿させます。
こういうのを発見するとファンとしては嬉しくなりますね。