藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編2巻 感想
SF・異色短編2巻に収録されているのは
- どことなくなんとなく
- 3千3万平米
- 分岐点
- 女には売るものがある
- あのバカは荒野をめざす
- パラレル同窓会
- クレオパトラだぞ
- タイムカメラ
- ミニチュア製造カメラ
- 値ぶみカメラ
- 同録スチール
- タイムマシンを作ろう
- 夢カメラ
- コラージュ・カメラ
- 懐古の客
- 四海鏡
- 親子とりかえばや
- 丑の刻禍冥羅
- 鉄人をひろったよ
- 異人アンドロ氏
8~11、13~16、18は未来から来たヨドバ氏が不思議なカメラをセールスするシリーズです。もう少し話が多ければ、短編ではなく一つのシリーズとして単行本化もあったかもしれません。
それでは気になったストーリーをいくつかピックアップしたいと思います。
どことなくなんとなく
この世界には自分しかいなく、まわりにあるものは自分の脳が生み出した幻想だったら…そんなことを考えたことがある人なら、より楽しめる短編だと思います。オチまでいたる展開に少々強引さも感じましたが、心にずんと来るものがありました。
現代で言うところのセカイ系のお話ですね。
分岐点
ある程度年齢を重ねると、あのときこうしていたらいまもっと幸せだったんじゃないか、なんてことを考えたりします。あの学校を選んでいたら、あの仕事を選んでいたら…なんて。
このお話の主人公は2人の女性のどちらかを選ばなければならない選択を迫られた過去があります。人生のやり直しでそのとき選ばなかった女性を選ぶのですが、結局後悔する主人公の姿がラストで描かれます。
最近はゲームとかで、複数のヒロインがいて、どの女の子を選んでもハッピーエンドになりますよね。このお話はどちらを選んでも、完全な幸せは得られないんですよ。どちらを選んでも不満がある。そのあたりのさじ加減が絶妙だと思いました。
あのバカは荒野をめざす
ホームレスの主人公が過去にさかのぼり、身を落とすキッカケとなった女と、若い頃の自分を別れさせようとする漫画です。
まずタイトルがいいですね。
「あのバカは荒野をめざす」
読み終えたあと、その響きに胸が熱くなります。言語センスに脱帽です。
藤子・F・不二雄先生は現在の自身の境遇を変えるため、過去を改変しようとする人物の物語をいくつか生み出しています。この本にも収録されている「分岐点」や「未来の思い出」「あいつのタイムマシン」などは過去の改変に成功し、別の現在を手に入れますが、本作は過去の改変に失敗します。
過去の自分を説得しようとするのですが、現在の落ちぶれた自分を見せても、若い頃の自分は揺るがないんですね。そして主人公は若き日の自身の姿に感化され、前を見て歩むことを決めます。
結局……
道をあやまるのも若者の特権ということかね。
だれにも止めることはできない
それにしてもあいつ……燃えてたなあ
あれがかつてのおれの姿だったんだ……
あてはないがね、
何かをやってみたくなった
ひと花咲かせられぬわけでもあるまいよ
なあに、おれだってまだまだ……
若さの讃歌がこの作品のテーマだと思います。藤子・F・先生は同様のテーマを「未来ドロボウ」という作品でも描いています。この作品とともに先生の人生哲学が垣間見れる傑作と言えるでしょう。
値ぶみカメラ
藤子・F・不二雄先生の漫画の中でもかなり好きな漫画です。先生は多作ですが、ここまでストレートなラブストーリーはあまりないのではないでしょうか。
値ぶみカメラはものの価値が写し出されるカメラです。
被写体の原材価格である「本価」と市場価格である「市価」、被写体がこれから生み出す「産価」、そして写した人間にとっての価値をはかる「自価」がわかります。
この4つの価値がわかるというアイデアが秀逸ですね。
人間を写して本価965円という描写がありますが、これは人間を脂肪や炭素の集合体として見た価格で、大全集3巻収録の「メフィスト惨歌」でも似たようなことが語られますね。
主人公の竹子は自身に好意を抱く二人の男性、青年実業家でイケメンの倉金と貧乏カメラマンの宇達を値ぶみカメラで撮りくらべます。
倉金が生涯で生み出すお金「産価」は宇達とくらべようもないぐらい高いものなのですが、竹子は宇達を選びます。竹子にとって宇達の「自価」はケタが表示されないぐらい高いものだったというオチです。
竹子は藤子F先生の描く女性キャラクターの中では、個性的なほうだと思います。メガネで男物のようなコートを着て、母親からも「男か女かわかんないかっこして」と言われています。しかし、ドラえもんのしずちゃんのようにダメな男を選ぶあたり、正統派の藤子ヒロインですね。自分が選ばれたことに驚きを隠せない宇達の表情も微笑ましいです。情熱的でロマンチックでとてもやさしい物語だと思いました。
倉金&宇達「信じられない!!」
あたしも……
でも、これしかないんだわ
玉のこしをすてて
真実の恋に生きる……
絵にかいたみたいな
結末ね
丑の刻禍冥羅
堂力は実に胸クソ悪いヤツですね。主人公が「丑の刻禍冥羅」という呪いのアイテムを使う以上、対象は悪者でないといけないのですが、じつにイヤなヤツでした。
顔もなんかムカつきますしね。主人公の元恋人で堂力の妻になっている女性は何が良くて堂力を選んだのでしょうか?
まぁ、当然の結果というか堂力は自業自得といった形で無残な最期を遂げます。
藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編集 1巻
藤子・F・不二雄先生の短編集は子供の頃、単行本や文庫本で揃えていたのですが、全話コンプリートしたいと思ったのが大全集を揃えるきっかけでした。
S・F異色短編集の第1巻に収録されているのは
- ミノタウロスの皿
- カイケツ小池さん
- ボノム 底ぬけさん
- じじぬき
- わが子・スーパーマン
- 気楽に殺ろうよ
- アチタが見える
- 劇画・オバQ
- イヤなイヤなイヤな奴
- 休日のガンマン
- 定年退食
- 権敷無妾付き
- ミラクルマン
- ノスタル爺
- コロリころげた木の根っこ
- 間引き
- やすらぎの館
気になったストーリーをいくつかピックアップしたいと思います。
ミノタウロスの皿
非常に有名な作品ですね。
藤子・F・不二雄先生が大人向けの短編を描くキッカケとなった記念すべき作品です。小学館の編集者に進められて描いたらしいのですが、その編集者がいなければと思うとゾッとしますね。のちの傑作群が生まれなかったわけですから。
内容はといいますと、宇宙飛行士の主人公が宇宙船の故障である惑星に不時着します。この主人公は21エモンそっくりで、大人になって宇宙飛行士になった21エモンという説があります。
この主人公が不時着したイノックス星は、牛が人間を家畜として管理する星で、牛のことをズン類、人のことをウスと読んでいます。主人公は肉用種のミノアという少女に恋をします。
以下、感想ですがネタバレを含むので未読の方は注意してください。
この話は牛と人間の関係を逆転したものですが、それだけにとどまりません。
この星の牛と人間の関係が、我々が住む地球のそれと決定的に違うのは、食べる側と食べられる側の間に意思の疎通がはかれることです。
食べられる側のミノアはそれを納得しています。
ただ死ぬだけなんて…何のために生まれてきたのかわからないじゃないの
あたしたちの死は、そんなむだなもんじゃないわ
大勢の人の舌を楽しませるのよ
(後略)
食べられる側もそれが当たり前のこととして受け入れているんですね。もし、地球の牛が喋れてもこんなことは言わないと思います。このミノアの考え方はイノックス星の常識であると同時に、我々の家畜に対する都合のよい考え方でもあると思います。
主人公は他の星の支配者層ということで、ミノックス星の牛と同待遇を受けています。ミノアを救いたい主人公は、支配層である牛に、人間を食べるなんて残虐なことはやめろと説いて回るのですが、まるで受け入れてもらえません。この状況を本編で「ことばは通じるのに話が通じない」と表現しています。
日常生活でもたまにありますよね。こいつと話してても時間の無駄だ、みたいなとき。そんな状況のモヤモヤ感を見事に言語化してくれたような気がします。
ハナシがそれました。
けっきょく常識VS常識なのですから、ホームの常識にアウェイの常識は通じません。
そしてミノアは大祭のメインディッシュとなるため大皿にのせられ、パレードがはじまります。このときのミノアの一糸まとわぬ姿にすさまじいエロスを感じます。
すべてが徒労に終わり、主人公は失意の中、迎えに来た宇宙船の中でビフテキを食べて物語は終わります。
子供の頃読んだとき、無力な主人公が少しでも溜飲を下げるために、復讐のつもりで牛を食べたと思ったのですが、大人になってから読むと
「自分だって牛を食べてるんだから、説得なんてできないんだよ」
というメッセージなんだと思いました。
この物語のIFとして、主人公が牛に残虐だからやめろと説くのではなく、同種族のミノアのことが好きだから、彼女だけを助けてくれと懇願したら、あるいはミノアの命は助かったかもしれないなと考えたりします。
もっともミノアが、それを喜んで受け入れるとは思えませんが…
ボノム 底ぬけさん
ボノム(Bonhomme)はフランス語で人とか人形のことを指すらしいのですが、お人好しという意味もあるそうです。
この作品は大全集ではじめて読みました。
仁吉さんはとてもお人好しで、会社の新入りはそれをもどかしく感じています。新人りは仁吉さんに一言もの申さんと屋台にさそいます。
最初は仁吉さんと新人りのやりとりでハナシが進んで行きますが、屋台の主人、街娼、チンピラ(街娼の情夫)と、一人ずつドタバタをまじえながらストーリーに加わっていきます。
屋台を舞台にして、役者が一人ずつ登場し加わっていく演劇、あるいはコントを見ているような感覚で読み進めました。
登場人物がそろい、仁吉さんがなぜお人好しなのか、本人の口から人生哲学が語られ、物語の雰囲気が喜劇からSFに変わります。人間の行動とは環境と遺伝子で決まる。人間はこれらに操られている人形にすぎない。だから誰も責めない、すべてを許すというのが仁吉さんの哲学です。
つまりタイトルのボノムは仁吉さんの性格「お人好し」だけでなく、人間は環境と遺伝子にあやつられる「人形」のダブルミーニングなんですね。
そして最後は皮肉めいたオチで終了。まるで落語のようでした。
この作品は藤子・F・不二雄先生の漫画の中でも、かなり特殊な読み味だと感じました。前述しましたが、演劇や落語のような感覚を受けました。藤子・F・不二雄先生の落語好きは有名で、オチのうまい作品は多々ありますが、演劇的だと思った作品は、あまり思いつきません
いまさら言うまでもありませんが、先生の引き出しの多さに、畏敬の念を抱かずにはいられません。
オバケのQ太郎1巻
藤子・F・不二雄大集をそろえています。
新品1冊あたり1000円以上するので、そうそう頻繁に買うわけにもいかず毎月1冊づつ購入しているのですが、ときおり安く買えたりするので頻繁に通販サイトを覗いたりしています。
今回紹介する「オバケのQ太郎」は、日常の中に異分子が住み着いて、さまざまな騒動が起きるという藤子先生の王道パターンを確立し、社会的に大ブームを巻き起こした大ヒット漫画です。
子供のころオバケのQ太郎のアニメが放送してたので、その流れでコミックのほうも読んでいたのですが、何十年も前の記憶ですし、はじめて読むような感覚でページを開きました。
「思ったより古いなぁ」
というのが最初の印象。1964年の作品ですし、当たり前ではあるのですが。
あとがきによるとトキワ荘のメンバーが、スタジオゼロを立ち上げたころに連載の話がきたらしく、原稿料をスタジオの運鋭資金にまわすため、作画をメンバーで分担していたのだとか。
藤子・F・不二雄先生後期の完成された画風、品がある洗練された絵のイメージが強い人から見ると違和感を感じるかもしれませんね。
脇役は石ノ森章太郎先生が描いていたらしく、絵柄がまんま本人です。藤子先生の画風にまったく合わせようとしないのはご愛嬌です。
読んで印象に残ったエピソードは「オバ子がいたよ」
正ちゃんの林間学校に、Q太郎がついて行きたがるのですが、当然断られます。どうしてもついて行きたいQ太郎は、女装してオバ子としてまぎれこみます。
しかしある男の子が「ひとり多くまぎれこんでる」と気づいて、オバ子のことを先生にいいつけようとします。しかし、そのつどオバ子がとんだり消えたりして、先生の視界に入りません。男の子は先生に、からかっているのかと叱られるといった内容です。
これとよく似たエピソードで21エモンに「火星に遠足」という話があり、セルフリファインとして興味深かったです。
また「ネズミを追い出せ!」なんかは、のちのSF短編「うちの石炭紀」を彷彿させます。
こういうのを発見するとファンとしては嬉しくなりますね。